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731部隊(18)「井本熊男業務日誌」をめぐって

731部隊 ネットで見かけたトンデモ議論(5)
「井本熊男業務日誌」をめぐって


 「井本熊男業務日誌」については、すでにこちらで紹介しています。私の紹介文を再掲します。


 井本熊男中佐は、1935年参謀本部勤務、以降、一時期を除き終戦まで「陸軍参謀」として活躍しました。戦後は陸上自衛隊第四師団長などを務めています。氏が著した『支那事変作戦日誌』、『大東亜戦争作戦日誌』は、戦史研究の上で、欠くことのできない貴重な資料になっています。

 1993年、吉見義明氏らは、防衛庁防衛研究所図書館にて、偶然に井本熊男中佐の業務日誌(全二三冊)を発見しました。これは、「陸軍中央幹部の記録という第一次資料であり、しかも日本政府が所管している資料
(吉見義明・伊香俊哉『日本軍の細菌戦』=『季刊 戦争責任研究』93年冬期号所収P8)という、紛れもない一級資料です。


 この業務日誌には、参謀本部作戦参謀の立場から見た、「細菌戦」の実施状況が詳細に記録されています1998年細菌戦裁判では、日本軍の「細菌戦実施」の「証拠」としても提出されました

 どうも掲示板では、この「細菌戦裁判」の判決文が議論の対象となったようです。deliciousicecoffee氏は、「おかしな井本日誌」と題する他の投稿者の「思い付き」投稿を、こちらでもまた、そのまま無批判に転載しています。

おかしな井本日誌  2004/ 6/ 5 5:59 [No.2968]

(投稿者名省略)

 井本日誌とは参謀本部の井本熊男氏が綴った業務日誌で防衛庁の図書館にあったものを吉見義明氏が発見したという。

 そこには、731部隊がやったといわれる「衢州や寧波への飛行機での細菌攻撃」についての記載がある。
 勿論、大事な事は符号で示されているが。

 これは、裁判の重要な証拠として利用されている。
 しかし、この記録、漠然と見れば、訴えを補強する材料に見えるが、細部を見れば、おかしな記述もみえる。


裁判記録では

―――――――
4 1940年9月10日の井本日誌
次の9月10日の日誌は、井本が奈良部隊の大田澄(中佐)と増田美保(大尉)から、攻撃目標と細菌輸送に関して報告を受けた内容を記載したものである(次頁のとおり。甲1の10頁)。
 次頁の記載のとおり、大田澄及び増田美保は、航空写真等による捜索の結果、攻撃目標地点は寧波と衢県が適当であること、さらに金華を候補にあげたことを井本に報告した。第1回の細菌戦輸送の弾薬は、当初予定された「C」(コレラ菌)ではなく「T」(チフス菌)に変更された


5 1940年9月18日の井本日誌
 次の9月18日の日誌は、井本が奈良部隊との間で確認した細菌戦の具体的実行計画の内容を記載したものである(次頁のとおり。甲1の10頁)。
 次頁の記載のとおり、奈良部隊との間で確認した細菌戦の具体的実行計画の内容は、攻撃目標として寧波、金華に加え、新たに玉山・温州・台州などの地名をあげ、寧波には、1キロメートル四方当たり1・5キログラムなどと、攻撃目標ごとの細菌使用量などが示された。
 細菌の生産量は、コレラ菌(「C」)が1日あたり10キロ、チフス菌(「T」)はそれ以上が見込まれていた。


6 1940年10月7日の井本日誌
 次の10月7日の日誌は、井本が、奈良部隊の中心的実行者であった山本吉郎(参謀)、福森憲雄(少佐)、大田澄、金子順一(大尉)、増田美保の5名から細菌戦の実施状況と実施の教訓についての報告を受けた内容を記載したものである(次頁のとおり。甲1の11頁)。
次頁の記載から、1940年9月18日ないし同年10月7日の期間に、日本軍は浙江省において6回の細菌攻撃を行った。なお、「蚤」は、ペスト感染ノミのことである。 また、攻撃の効果の判定のために密偵(スパイ)による調査を行うこと、攻撃目標及び攻撃方法に融通性を持たせること、攻撃方法を重複することができること、細菌戦の将来については継続する見通しであることなどが報告された。
―――――――

とある。

 これらは、非常に具体的で一見信憑性があるように見える、が、何かおかしい。
 というのは、

 9月10日の予定では、攻撃目標は寧波と衢県・金華(これは問題ない)で、
 細菌は「C」(コレラ菌)から「T」(チフス菌)に変更されている。

 そして、9月18日の日誌でも、細菌は「C」(コレラ菌)と「T」(チフス菌)しか書いてない。


 しかし、実際に使われたというのはペスト菌である、これはどういう事なのか。
 打ち合わせに、まったく出てこないペスト菌が使われている



 いや、「井本日誌」を論じるのであれば、判決文に示された要約版などではなく、ちゃんと、吉見義明・伊香俊哉『日本軍の細菌戦』(『季刊 戦争責任研究』93年冬期号)吉見義明・伊香俊哉『七三一部隊と天皇・陸軍中央』(岩波ブックレット)を確認しておけよ、ということはともかく……



 まず大前提の話ですが、『井本日誌』は、作戦参謀であった井本熊男が著し、防衛庁戦史部が所蔵する、いわば公的資料です。この資料自体が「存在が疑わしい」とか「本物かどうか怪しい」などということはありえません。

 もちろん、どんな資料についても言えることですが、資料の内容を「史実」として確定させるためには、「史料批判」という手続きを経ることが必要です。

 当然記述内容に誤りが含まれている可能性はありますが、それによって史料全体の「史料価値」がゼロになることなどありえません。

 投稿者は、資料の細かな矛盾(と投稿者が勝手に判断したもの)を材料に、井本日誌の「史料価値」の全否定を試みたいようですが、それは無理というものです



 そもそもの話、この「矛盾」自体、投稿者が「細菌戦」に関すして不十分な知識しか持たず、かつ「日誌」をしっかり読んでいないことに起因します

 「井本日誌」の該当箇所を確認しておきましょう。

『井本熊男業務日誌』より

9月10日

1、目標を9/10
〔ママ 九月一〇日〕捜索す。寧波と衢県は目標として適当なるが如し。(金華は?)航空写真(都市)。
2、10/9
〔九月一〇日〕第一回弾薬輸送の処遅る。数日中に到著の予定。第一回C(コレラ菌)をT(チフス菌)に改む(「井本日記」)
※「ゆう」注 戦前は、しばしば「到着」を「到著」と表示していました。誤字ではありませんので、念のため。

10月7日

1、輸送 今迄に六回(内船二回)、空輸は各其日に到著。船は約六日を要す。将来航空機を可とす。
2、今迄の攻撃回数六回。蚤は一g、約一七〇〇。(別表に依り説明)
3、効果の判定を期待す。密偵。



10月8日

 Cは出ないと思ふ、P(ペスト菌)は或は成功するやも知れず

(吉見義明・伊香俊哉『七三一部隊と天皇・陸軍中央』、及び『日本軍の細菌戦』(『季刊 戦争責任研究』93年冬期号)より抜粋)

 つまり、

①9月10日に第1回輸送を実施。チフス菌を輸送。

②10月7日までに6回の輸送を実施(輸送した菌の明記なし)。そして6回の「攻撃」を実施。

③10月8日 「Cは出ないと思ふ、Pは或は成功するやも知れず」 ⇒ 少なくとも、コレラ菌とペスト菌を撒いた、あるいは撒こうとしたことを前提とした記述です。


 投稿者は②を無視していますが(「判決文」では省略されていますので、知らなかったのかもしれません)、この3つの文を繋げれば、1回目にはチフス菌を輸送、コレラ菌とペスト菌は2回目以降に輸送した、というのが最も普通の読み方でしょう。

 こんなところに無理やり「矛盾」を発見する必要は、全くありません。



 参考までに、プロの研究者たちの「読み方」を紹介しておきます。


吉見義明・伊香俊哉『日本軍の細菌戦』

 そして筆者の推測では、九月中にはコレラ菌とチフス菌を中心に日本軍機による細菌攻撃が先行された。その目標は九月一八日の井本の日記が示すように寧波、金華、玉山、温州、台州などのいずれかであった。

 しかしこの細菌攻撃は石井らが期待した効果をあげなかった。一方、一〇月に入ってからのペスト菌による攻撃は効果が確認された。一〇月七日の「蚤」というのは、ペスト菌に感染させた蚤(ペストノミ)がこの時期に使用されたことを示し、一〇月八日の「Cハ出ナイト思フ」「Pハ或ハ成功スルカモ知レス」という観測はこの段階で何らかの効果を確認しつつあったことをうかがわせるものである。(P12-P13)

(『季刊 戦争責任研究』93年冬期号)


青木冨貴子『731』

 九月十八日から十月七日の間に六回の細菌戦攻撃が、浙江省の寧波、金華、玉山などの都市に対して行われ、スパイを使って攻撃目標地区にコレラ菌やチフス菌の菌液を撒布する謀略手段も用いられた。

 しかし、コレラやチフス菌が期待したほどの効果を上げなかったため、ペスト菌に重点が置かれるようになり、ペスト菌に感染したノミを十月下旬には寧波へ、十一月には金華へ投下した。(P103)

 

 いずれも、三種すべての「細菌」が使用された、という認識です。これが最も、素直な解釈でしょう。




 念のためですが、「1940年細菌戦」で、チフス菌、コレラ菌、ペスト菌の三種の細菌が使われた、という事実は、別に「井本日誌」によって初めて明らかになったものではありません

 既に1949年12月、第四部(細菌製造部)柄澤班班長・柄澤十三夫が、ハバロフスク軍事裁判の尋問調書にて、次のように証言しています。

被告柄澤十三夫の尋問調書

 私の指導せる課は、現存設備を使用して一ヵ月に次の細菌量を各個に生産し得ました。ペスト菌一〇〇キログラム、炭疽菌二〇〇キログラム、腸チブス菌三〇〇キログラム、、パラチブス「A」菌三〇〇キログラム、コレラ菌三三〇キログラム、赤痢菌三〇〇キログラム。

 一九四〇年後半期、私の指導せる班は、他の部隊員の一隊と共に中国中部に赴ける元部隊長石井中将を隊長とする特別派遣隊の為に、腸チブス菌七〇キログラム、コレラ菌五〇キログラムを製造しました。尚同派遣隊は中国軍に対し、腸チブス菌、コレラ菌以外にペスト蚤を使用しました。(P91)

(『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』より)  


 さらに柄澤は、この寧波作戦において、「コレラ菌と腸チフス菌は成功しなかったが、ペスト菌は有効」であった旨を述べています。

柄澤十三夫供述書

 実験の主目的は中国軍に占領された地域に空から細菌を撒布することだった。実験後、寧波ではペストが流行し蔓延した。コレラ菌と腸チフス菌は成功しなかったが、ペスト菌は有効であることが判明した。(P71)

(近藤昭二『細菌戦部隊将校の顛末 柄澤十三夫少佐の場合』=『戦争責任2 特集=「731部隊と現代」』所収)


 この「補完証言」になりますが、柄澤の部下であった篠塚(田村)良夫は、あちこちの証言で、これらの細菌を製造したことを語っています。ここでは青木冨貴子氏の「聞き取り」を紹介します。

青木冨貴子『731』

(篠塚良夫からの聞き取り)

 細菌の大量生産を行う時には、石井四郎の発明した「石井式培養缶」のなかに細菌の植え付けを行い、これをチェーンコンベアで孵卵室に入れ、だいたい二〇時間ほどかけて培養する。でき上がった細菌を掻き取り作業によって集めるのだった。

 チェーンコンベアを使った作業工程で、部隊の設備をフル稼働させると、一〇〇〇缶の「石井式培養缶」が操作できた。培養時間を含めて全工程約三〇時間で一〇キログラムという膨大な量の細菌をつくることができたと篠塚は記憶している。

 細菌の大量生産は、班内で「サクメイでやる」という言葉ではじまった。サクメイとは作戦命令の略称であり、「関作命(関東軍作戦命令)第×号」という命令が下ると、柄澤班には他班から部隊員が動員される。(P96)

 篠塚の記憶にある限り大量生産した細菌は、ペスト菌、チフス菌、パラチフス菌、赤痢菌、コレラ菌、炭疽菌だった

「培地に生産されたほとんどの菌は、透明感があって、きれいに見えます。ペスト菌というのは、納豆を掻き回すとたくさん糸をこう引くでしょう。あれと全く同じように糸を引くんです。その糸だって触れれば感染します」(P97)


※煩雑になりますのでここでは省略しますが、「1940年細菌戦」については、他にも、「ペスト菌を投下した」との川島清証言(『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』P308-P309)、また、「731部隊第二部航空班員」の「腸チフス菌を撒いた」との証言(高杉晋吾『細菌戦の医師を追え』P36-P37)もあります。さまざまな細菌が使われたことは間違いありません。

 これらの証言などにより、「井本日誌」の発見以前に、「1940年細菌戦において三種の細菌が使用された」というのは、研究者の「常識」になっていました。例えば、井本日誌の発見(1993年)に先立つ1990年に発表された、秦郁彦氏の論稿を見ましょう。

秦郁彦『日本の細菌戦』(下)

表2 石井部隊の細菌作戦

  浙東作戦 常徳作戦  浙かん作戦 
 出動期間 1940.7~12   1941.11 1942.7~8 
 出動場所 杭州~寧波 南昌  杭州~金華 
 出動人員 100  40~50  160 
 現地指揮官 大田澄大佐
山本吉郎中佐 
大田澄中佐
碇常重中佐 
石井四郎少将
村上隆中佐 
使用細菌  ペスト、チフス、コレラ  ペスト  ペスト、チフス、パラチフス、コレラ、炭疽 
 携行細菌量 125Kg    130Kg 

(P563)

(『昭和史の謎を追う』(上)所収)


 「井本日誌」は、「さまざまな菌が使われた」という従来の認識に、新たな「証拠」を加えたものであるにすぎません。



 さて、投稿者の「疑問」を再掲しましょう。


 9月10日の予定では、攻撃目標は寧波と衢県・金華(これは問題ない)で、
 細菌は「C」(コレラ菌)から「T」(チフス菌)に変更されている。

 そして、9月18日の日誌でも、細菌は「C」(コレラ菌)と「T」(チフス菌)しか書いてない。


 しかし、実際に使われたというのはペスト菌である、これはどういう事なのか。
 打ち合わせに、まったく出てこないペスト菌が使われている


 どうもこの投稿者、「日本軍はコレラ菌・チフス菌・ペスト菌の全ての菌を使った」、という単純な解釈に思い至らなかったようです。



 投稿者の「疑問」を続けます。

おかしな井本日誌  2004/ 6/ 5 5:59 [ No.2968

 1942年10月5日の日誌に「衢県Tハ井戸ニ入レタルモ之ハ成功セシカ如シ(水中ニテトケル)」との報告を受けた。
 とあるが、中国側の証言を見る限り、衢県(「ゆう」注 「くけん」と読みます)が日本軍に占領されたとは書いてない


 中国側の支配地の中の井戸にどうやって「T」(チフス菌)を入れたのか
 それに衢州は、チフスについては言及していないが。

 この作戦が、事実かどうかは判らないが、事実とした場合、最初に細菌を用意してから二年も経って実施するとはどういうことなのか。理解に苦しむ。



 議論は、1942年浙かん作戦における「細菌戦」に移ったようです。

 このあたり、掲示板における前後のやりとりが欠けているようで、投稿者が一体何を言っているのか、正直、私にもよくわかりません。

 一応、文章に沿って見ていきましょう。




 1942年10月5日の日誌に「衢県Tハ井戸ニ入レタルモ之ハ成功セシカ如シ(水中ニテトケル)」との報告を受けた。

 とあるが、中国側の証言を見る限り、衢県が日本軍に占領されたとは書いてない


 何で「衢(ク)県が日本軍に占領されたことがあるかどうか」を確認するのに「中国側の証言」に頼らなければならないのか、理解に苦しみます。知りたければ、戦史関係の概説書を確認すればいいだけの話です。

 ここでは、最もスタンダードな、防衛庁戦史室『戦史叢書』の記述を確認しておきましょう。


防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書55 昭和十七、八年の支那派遣軍』

 浙かん作戦は、「せ」号作戦ともいわれ、昭和十七年四月十八日のいわゆるドーリットルの日本本土空襲機が、着陸を予定していた衢州飛行場を始め浙江省の敵飛行場を覆滅するため、急遽、第十三軍は約六コ師団をもつて五月中旬杭州付近から、第十一軍は約二コ師団をもって五月末南昌付近からそれぞれ攻勢を開始し、遠く江西省東部まで進攻し、衢州、玉山、霊水等の飛行場を覆滅し、浙かん線を打通するとともに、軌条その他各種軍需資材を押収、後送し、八月半ばから反転を開始し、九月末に終わった作戦である。(P97)


 「浙かん作戦」は、中国奥地にある飛行場を破壊し、その後物資を奪った上で撤退する、という作戦でした。その作戦地の中に、ちゃんと、「衢州」の名も入っています※念のためですが、「衢州」は「衢県」の別名です。(李力『浙江・江西細菌作戦 一九四〇~四四年』=『戦争と疫病』所収 P176)  そもそも日本本土を空襲したB25機の着陸地点が「衢州飛行場」であり、その飛行場の破壊が作戦目的であれば、「衢州」を作戦地から外すことなど、ありえません。




 中国側の支配地の中の井戸にどうやって「T」(チフス菌)を入れたのか


 「中国側の支配地」という前提が覆っていますので、この「疑問」は無意味です。実際には、日本軍がいったん占領した地に、軍の撤退直前に細菌を撒く、という作戦でした。

吉見義明・伊香俊哉『七三一部隊と天皇・陸軍中央』

浙カン作戦における細菌兵器攻撃

 そこで、地上からの攻撃では日本軍の侵攻で中国住民が避難したあとの無住地帯に細菌をまいて、日本軍撤退後復帰した住民が感染するような撒布法をとることを支那派遣軍は決定した。(P39)



 さらに言えば、「中国側の支配地」だから「井戸に細菌を入れるのは無理」と決めつける理由もありません。密偵などをこっそりと「中国側の支配地」に侵入させ、細菌を撒けばいいだけの話です。

 参考までに、浙かん作戦時に「細菌を撒いた」という具体的証言をいくつか紹介しましょう。

小沢武雄証言

元南京一六四四部隊衛生兵 1995年9月聴取 森正孝

 作戦は、四二年八月の中頃。夕刻南京一六四四部隊の飛行場を二機の小型輸送機で出発。それぞれに五人ずつ分乗。一機は離陸に失敗したため小沢氏たちだけが目的地(浙江省であることはわかっていたが地名は不明)に到着。その間約三〇分飛んだ。着陸地は、砲撃のあとが生々しく穴ぼこがあちこちにあり飛行場のようにも見えた。

 暗くなるのを待って行動開始。 小沢氏ら五人は、腰にサイダー瓶を一〇本ほどぶらさげ、手にも五本以上、持てるだけ持ってて行動した。瓶の中には黒々となるほどのペストノミが入っていた。

 目ざすは、国民党軍の宿舎である。日本軍の攻撃で宿舎は無人であった。すぐさま片方の手にもった懐中電灯を頼りに宿舎の床下へもぐり込んだ。そして瓶のふたを開け、素早くノミをばらまいた。(P47)

(『細菌戦部隊』所収)


証人古都の尋問

(問) 派遣隊は、中国中部で何に従事していたか?

(答) 私が参加した派遣隊の業務は、何かと言いますと、其れは、貯水池、河川、井戸、建物をチブス菌及びパラチブス菌によって汚染する方法による細菌攻撃でありました。第七三一部隊は、同部隊第四部で大量製造した前述細菌を、此の派遣隊の為に送りました。細菌は、ペプトン用の壜に詰められていました。此等の壜は、「給水」と表書きした箱に詰められていました。そして、此等の箱は、飛行機で南京に送られました。

(問) 所で、此等の箱に詰められていた物を貴方がたはどうしたか?

(答) 南京部隊に到着次第、壜に詰められた細菌の一部は、是れを通常、飲料水用の金属製水筒に入れ替え、残りの部分は、壜の中に残しました。壜と一緒に、水筒はすべて是れを、箱詰めにし、次いで飛行機で攻撃予定地に送りました。

 攻撃は、水筒及び壜を井戸、湿地、村落の民家に投込む方法によって行われました。ペプトン用壜の一部は、特製の肉汁で細菌を繁殖するのに利用されましたが、此の肉汁の成分は、記憶していません。(P459)

(『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』より)  


秦郁彦『日本の細菌戦』(下)

 敵味方の接点を行動するので、任務は決して安全とはいえなかった。

 伊藤邦之助軍医大尉の率いる十数人の班は、夜陰にまぎれペストねずみを放ち、スイカなどにペスト菌を注射してまわっている時、川を渡って前進してきた中国軍の先兵とぶつかり、あわてて逃げたと班員の中山政吉技手は回想する。(P566)

(『昭和史の謎を追う』(上)所収)

 いずれも、係争地、もしくは敵地に潜入しての、「極秘行動」です。中国側の支配地であっても、「細菌を撒く」ことが不可能になるわけではありません。

 いずれにしても、投稿者の「疑問」は、成立しません。



おかしな井本日誌  2004/ 6/ 5 5:59 [ No.2968

 それに衢州は、チフスについては言及していないが。


 こちらもまた、前後のやりとりが省略されているようで、投稿者が何を言っているのかわかりません。

 一応、「井本日誌」を確認します。


『井本熊男業務日誌』より

(1942年)8月28日

1、広信 Px (イ)毒化ノミ。
        (ロ)の鼠に注射して放す。
(P40)
  広豊 (イ)
  玉山 (イ)
      (ロ)
      (ハ)米にPの乾燥菌を付着せしめ鼠-蚤-人間の感染を狙ふ。
  江山 C a井戸に直接入れる。
        b食物に付着せしむ。
        c果物に注射。
  常山 右同
  衢県 T、PAノミ
  麗水 T、PAノミ

2、南京に総弾薬を集め 〔飛行機〕衢州-〔自動車〕-目的地。
3、攻撃の為の人員は約一一〇名中、1/3は〔飛行機〕にて、他は〔自動車〕にて、杭州より。3/8
〔八月三日〕迄に展開を了る。
4、地上作戦との関係
  32D → 衢 ← 河野B
〔旅団〕
  22D 15D 此の二ケD
〔師団〕は実施地域と関係あり、撤退後攻撃開始す。(「井本日記」)(P41)

(吉見義明・伊香俊哉『七三一部隊と天皇・陸軍中央』)

 8月28日には、衢県にT(チフス菌)を撒く予定であることが、記述されています。さらに10月5日の記述には、「Px(P其他)は先づ成功? 衢県Tは井戸に入れたるも之は成功せしが如し(水中にてとける)」と、「井戸に入れた」ことが明記されています(吉見義明・伊香俊哉『七三一部隊と天皇・陸軍中央』P42)

 投稿者は一体何が疑問なのでしょうか。




 この作戦が、事実かどうかは判らないが、事実とした場合、最初に細菌を用意してから二年も経って実施するとはどういうことなのか。理解に苦しむ。


 ここのところ、投稿者がどのような資料をもとに発言しているのかよくわかりませんが、そもそも製造した細菌が二年も生きている、ということはありえません(炭疽菌の粉末化保存を除く)。石井部隊が「細菌戦」用に準備する細菌は、絶えず入れ替わります。

 1940年に「用意」された細菌は、1940年の寧波・金華・衢県などの細菌戦で消費されたはずです。投稿者は、何か勘違いしているのでしょう。



 さらに、その続きです。


 1942年10月2日。中国政府が日本の細菌戦を非難し始めたので、井本は、「ホ」号の件として、「〔参謀〕次長電ニ依リテ飛行機ニ依リ実施スルコトハ当分ノ間延期スヘキ旨電報」をうった


 中国側から非難されたから、やめるって、一体どういう作戦なのか。ならば最初からしなければいいのに。
 それに、中国側も始まって二年も経った後から非難するとはどういうことなのか。




 いかにも「思い付き」で書きました、という文章です。この2フレーズを、順番に見ていきます。


 中国側から非難されたから、やめるって、一体どういう作戦なのか。ならば最初からしなければいいのに。



 どうもこの投稿者、そもそも「細菌戦」は国際法違反である、という「常識」を知らないとしか思えません。

 「細菌戦」は、疫病の流行が「自然発生」か「人為的発生」か見分けがつきにくい、という特徴を悪用して行われるものです。当然、相手に知られないように、極秘裏に行われます。

 ましてこの10月時点では、6月のルーズベルトの警告が、まだ強く意識されていたはずです。

秦郁彦『日本の細菌戦』(下)

 すでに一九四二年六月六日、ルーズベルト大統領は、「日本がかかる非人道的戦法を中国あるいは他の連合国に対して使用しつづけるなら、米国に使用するものと見なし、全面的報復措置をとることになろう」と警告していた。

 ここにいう「非人道的戦法」とは、以前からひんぴんと伝えられていた毒ガス戦を指していたが、細菌戦についてもアメリカが同様の決意を持っている、と日本が想定したのは当然だろう。(P563-P564)

 この警告のせいか、中国大陸における毒ガスと細菌の使用は直後から下火になり、やがて中止される。(P564)

(『昭和史の謎を追う』(上)所収)

 中国側が「細菌戦」の実施に気が付いた(あるいは気が付きかけた)以上、それ以上「作戦」を続行することは、米軍の報復を誘発することになりかねません。

 実際に「浙かん作戦」における細菌戦が「中国の非難」によって中止されたのかどうか、私は他の資料で確認できませんでしたが、この流れは特段不自然なものではないでしょう。




 それに、中国側も始まって二年も経った後から非難するとはどういうことなのか。


 突然「二年」の語が出てきましたが、投稿者が紹介した引用文は「1942年10月2日。中国政府が日本の細菌戦を非難し始めたので」で、「二年」の文字はありません。

 あるいは掲示板の一連のやりとりの中で「二年」の文字が登場したのかもしれませんが、今となっては確認のしようがありません。

 いずれにせよ、投稿者は、「1940年10月寧波細菌戦について、中国側は二年も経った1942年10月になってなぜか突然「非難」してきた」と理解しているものと推察されます。


 吉見氏らの原文を見ましょう。

吉見義明・伊香俊哉『七三一部隊と天皇・陸軍中央』

 この報告が意味しているのは、広信・広豊・玉山はペスト菌による攻撃、江山・常山はコレラ菌による攻撃、衢州・麗水はチフス菌・パラチフス菌による攻撃が行われたということである(二〇ページの地図参照)。

 しかも、ペスト菌は、ノミを撒く方法、ネズミを放す方法、コメに乾燥ペスト菌をつけて撒く方法がとられている。コレラ菌については、井戸に入れる方法、食物につける方法、果物に注射する方法を用いている。

 このように、攻撃目標地区別に、異なった菌による異なった攻撃法が実施され、住民を対象にした様々な実験が行われたのである。

 その後も、日本軍は既定方針通りに、味方に被害が出ない方法での航空と地上からの細菌兵器攻撃を実施したが、中国政府が日本の細菌戦を非難しはじめたので、一〇月二日に飛行機による投下は中止された

 この日の日誌には、「ホ」号の件として「次長電に依りて飛行機に依り実施することは当分の間延期すべき旨電報す」と記されている。延期せよとの参謀次長の指示が出されたのである。(P42)

 

 吉見氏らは「非難」の具体的内容に触れておらず(「井本日誌」に「非難」に関する記述があったようにも読めます)、これが「今現在行われつつある細菌戦に対する非難」なのか、それとも「過去の細菌戦に対する改めての非難」なのか、判然としません。

 しかし少なくとも、投稿者が考えるような、「2年も前の細菌戦のことを、なぜか突然非難しだした 」ものでないことだけは、確かです。
※2020.4.8追記 『裁かれる細菌戦』第1集 P138にて、「中国政府が日本の細菌戦を非難し始めた」は「井本日誌」の記述であることが確認できました。
 実際には、中国側は、この半年前の1942年3月、重慶の各国大使館へ文書を配布する形で、「日本の細菌戦」への非難を行っています。いわば、外交ルートを通じた、「公式の非難」と言ってもいいでしょう。

松村高夫『細菌戦研究の問題性』

 中国側が、日本軍が細菌戦を実施しているとの確信を抱き、世界に向けて最初に発信したのは、一九四二年三月三一日の金宝善報告書であった

 その中では、四〇年一〇月四日の浙江省の衢県、同年一〇月二七日の同省の寧波、同年一一月二八日の同省の金華、翌四一年一一月四日の湖南省の常徳への、日本軍機からのペスト菌散布とその被害について順次報告されている。

 報告の約半分の量を占めるのは第5章ですでに指摘された常徳のケースである

 つづいて四二年一月から発生した、綏遠、寧夏、陝西省の各省でのペスト発生が簡潔に報告され、三月までにペスト患者六〇〇人がでているが、日本軍がネズミを放していったとの情報があるものの、綏遠の土着のペストかどうかはさらなる調査が必要だとしている。(P396)

(『戦争と疫病』所収)  


常石敬一『消えた細菌戦部隊』(ちくま文庫)

 この常徳地区に対するペストノミの実戦試験は、それが人為的なものであることを中国(国民政府)側によって完全に見破られた。当時の中国軍医署は、常徳へのペストノミによる攻撃について、そしてそれによるペストの流行について報告書を作成した。それにはこの攻撃が日本の細菌戦部隊によるものであることがはっきりと明記されている。(P193-P194)

 中国はこの文書を重慶駐在の各国大使館に配布して、日本が細菌戦を展開したことに対して注意を喚起しようとした。アメリカで細菌戦の研究が本格化するのは、この年からである。これは偶然の一致ではないだろう。(P194)


 上の引用文にある通り、文書のメインテーマとなったのは、1941年11月の「常徳細菌戦」でした。1940年10月「寧波細菌戦」についても、言及が見られます。

 少なくとも、1942年10月の時点で、中国側が突然、1940年10月寧波細菌戦を「非難」しだした、というのは、明白な事実誤認です



 なお、半藤一利氏が、「元参謀」(氏名不詳)が語るこんなエピソードを紹介しています。

半藤一利『もう一つの聖断』

 元参謀のその人の話をつづけよう。


 すでに知られているように、昭和十五年、中国大陸の寧波ついで常徳付近において、細菌戦特殊部隊の手による極秘作戦で、ペスト菌を流行させることに陸軍は成功している。これは南京第一六四四部隊の軽爆撃機三機による超低空からの、霧状の細菌撒布によった。もっと正確にいえば、ペスト菌に汚染された蚤をばら撒いたのである。

 ところが、この報告がアメリカへも急報され、米陸軍省は報道機関に「非人道的行為」として流した(ただし、蚤を利用してのペスト菌の使用はまったく予測していない)。

 この新聞記事を入手した日本陸軍は、世界各国の非難を恐れて、あわてて、支那派遣軍に細菌使用の作戦について十分慎重な態度でのぞむよう強く要望する。

 これによって、特殊部隊を中心とした細菌戦術は全面的に中止されることになっていたのである
。研究はなお進めるものとして。

 そして、その研究の結果、満州第七三一部隊は石井四郎中将の指揮のもと、細菌爆弾の製造に成功していたことは、どうやら確かなことのようである。(P199)

(文藝春秋1988年8月『「昭和」の瞬間』所収)

 事実関係が十分に整理されていない感があり、「史実」との対応が必ずしも明確ではありませんが、重慶の各国大使館に配布した文書がこの時期になって外国紙に報道され、日本側はそれを見てあわてて作戦中止を指令した、と解釈すれば、一応は吉見氏らの記述とも整合します。

 他の裏付け資料が見当たらず断定はできませんが、あるいはこれが、「浙かん細菌戦」を中止に追い込んだという、「中国側の非難」の正体だったのかもしれません。  

(2017.8.5)


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