731部隊 ネットで見かけたトンデモ議論(5) |
「井本熊男業務日誌」をめぐって |
「井本熊男業務日誌」については、すでにこちらで紹介しています。私の紹介文を再掲します。
この業務日誌には、参謀本部作戦参謀の立場から見た、「細菌戦」の実施状況が詳細に記録されています。1998年細菌戦裁判では、日本軍の「細菌戦実施」の「証拠」としても提出されました。 どうも掲示板では、この「細菌戦裁判」の判決文が議論の対象となったようです。deliciousicecoffee氏は、「おかしな井本日誌」と題する他の投稿者の「思い付き」投稿を、こちらでもまた、そのまま無批判に転載しています。
いや、「井本日誌」を論じるのであれば、判決文に示された要約版などではなく、ちゃんと、吉見義明・伊香俊哉『日本軍の細菌戦』(『季刊 戦争責任研究』93年冬期号)か吉見義明・伊香俊哉『七三一部隊と天皇・陸軍中央』(岩波ブックレット)を確認しておけよ、ということはともかく…… まず大前提の話ですが、『井本日誌』は、作戦参謀であった井本熊男が著し、防衛庁戦史部が所蔵する、いわば公的資料です。この資料自体が「存在が疑わしい」とか「本物かどうか怪しい」などということはありえません。 もちろん、どんな資料についても言えることですが、資料の内容を「史実」として確定させるためには、「史料批判」という手続きを経ることが必要です。 当然記述内容に誤りが含まれている可能性はありますが、それによって史料全体の「史料価値」がゼロになることなどありえません。 投稿者は、資料の細かな矛盾(と投稿者が勝手に判断したもの)を材料に、井本日誌の「史料価値」の全否定を試みたいようですが、それは無理というものです。 そもそもの話、この「矛盾」自体、投稿者が「細菌戦」に関すして不十分な知識しか持たず、かつ「日誌」をしっかり読んでいないことに起因します。 「井本日誌」の該当箇所を確認しておきましょう。
つまり、 ①9月10日に第1回輸送を実施。チフス菌を輸送。 ②10月7日までに6回の輸送を実施(輸送した菌の明記なし)。そして6回の「攻撃」を実施。 ③10月8日 「Cは出ないと思ふ、Pは或は成功するやも知れず」 ⇒ 少なくとも、コレラ菌とペスト菌を撒いた、あるいは撒こうとしたことを前提とした記述です。 投稿者は②を無視していますが(「判決文」では省略されていますので、知らなかったのかもしれません)、この3つの文を繋げれば、1回目にはチフス菌を輸送、コレラ菌とペスト菌は2回目以降に輸送した、というのが最も普通の読み方でしょう。 こんなところに無理やり「矛盾」を発見する必要は、全くありません。 参考までに、プロの研究者たちの「読み方」を紹介しておきます。
いずれも、三種すべての「細菌」が使用された、という認識です。これが最も、素直な解釈でしょう。 念のためですが、「1940年細菌戦」で、チフス菌、コレラ菌、ペスト菌の三種の細菌が使われた、という事実は、別に「井本日誌」によって初めて明らかになったものではありません。 既に1949年12月、第四部(細菌製造部)柄澤班班長・柄澤十三夫が、ハバロフスク軍事裁判の尋問調書にて、次のように証言しています。
さらに柄澤は、この寧波作戦において、「コレラ菌と腸チフス菌は成功しなかったが、ペスト菌は有効」であった旨を述べています。
この「補完証言」になりますが、柄澤の部下であった篠塚(田村)良夫は、あちこちの証言で、これらの細菌を製造したことを語っています。ここでは青木冨貴子氏の「聞き取り」を紹介します。
※煩雑になりますのでここでは省略しますが、「1940年細菌戦」については、他にも、「ペスト菌を投下した」との川島清証言(『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』P308-P309)、また、「731部隊第二部航空班員」の「腸チフス菌を撒いた」との証言(高杉晋吾『細菌戦の医師を追え』P36-P37)もあります。さまざまな細菌が使われたことは間違いありません。 これらの証言などにより、「井本日誌」の発見以前に、「1940年細菌戦において三種の細菌が使用された」というのは、研究者の「常識」になっていました。例えば、井本日誌の発見(1993年)に先立つ1990年に発表された、秦郁彦氏の論稿を見ましょう。
「井本日誌」は、「さまざまな菌が使われた」という従来の認識に、新たな「証拠」を加えたものであるにすぎません。 さて、投稿者の「疑問」を再掲しましょう。
どうもこの投稿者、「日本軍はコレラ菌・チフス菌・ペスト菌の全ての菌を使った」、という単純な解釈に思い至らなかったようです。 投稿者の「疑問」を続けます。
議論は、1942年浙かん作戦における「細菌戦」に移ったようです。 このあたり、掲示板における前後のやりとりが欠けているようで、投稿者が一体何を言っているのか、正直、私にもよくわかりません。 一応、文章に沿って見ていきましょう。
何で「衢(ク)県が日本軍に占領されたことがあるかどうか」を確認するのに「中国側の証言」に頼らなければならないのか、理解に苦しみます。知りたければ、戦史関係の概説書を確認すればいいだけの話です。 ここでは、最もスタンダードな、防衛庁戦史室『戦史叢書』の記述を確認しておきましょう。
「浙かん作戦」は、中国奥地にある飛行場を破壊し、その後物資を奪った上で撤退する、という作戦でした。その作戦地の中に、ちゃんと、「衢州」の名も入っています。 ※念のためですが、「衢州」は「衢県」の別名です。(李力『浙江・江西細菌作戦 一九四〇~四四年』=『戦争と疫病』所収 P176) そもそも日本本土を空襲したB25機の着陸地点が「衢州飛行場」であり、その飛行場の破壊が作戦目的であれば、「衢州」を作戦地から外すことなど、ありえません。
「中国側の支配地」という前提が覆っていますので、この「疑問」は無意味です。実際には、日本軍がいったん占領した地に、軍の撤退直前に細菌を撒く、という作戦でした。
さらに言えば、「中国側の支配地」だから「井戸に細菌を入れるのは無理」と決めつける理由もありません。密偵などをこっそりと「中国側の支配地」に侵入させ、細菌を撒けばいいだけの話です。 参考までに、浙かん作戦時に「細菌を撒いた」という具体的証言をいくつか紹介しましょう。
いずれも、係争地、もしくは敵地に潜入しての、「極秘行動」です。中国側の支配地であっても、「細菌を撒く」ことが不可能になるわけではありません。 いずれにしても、投稿者の「疑問」は、成立しません。
こちらもまた、前後のやりとりが省略されているようで、投稿者が何を言っているのかわかりません。 一応、「井本日誌」を確認します。
8月28日には、衢県にT(チフス菌)を撒く予定であることが、記述されています。さらに10月5日の記述には、「Px(P其他)は先づ成功? 衢県Tは井戸に入れたるも之は成功せしが如し(水中にてとける)」と、「井戸に入れた」ことが明記されています(吉見義明・伊香俊哉『七三一部隊と天皇・陸軍中央』P42)。 投稿者は一体何が疑問なのでしょうか。
ここのところ、投稿者がどのような資料をもとに発言しているのかよくわかりませんが、そもそも製造した細菌が二年も生きている、ということはありえません(炭疽菌の粉末化保存を除く)。石井部隊が「細菌戦」用に準備する細菌は、絶えず入れ替わります。 1940年に「用意」された細菌は、1940年の寧波・金華・衢県などの細菌戦で消費されたはずです。投稿者は、何か勘違いしているのでしょう。 さらに、その続きです。
いかにも「思い付き」で書きました、という文章です。この2フレーズを、順番に見ていきます。
どうもこの投稿者、そもそも「細菌戦」は国際法違反である、という「常識」を知らないとしか思えません。 「細菌戦」は、疫病の流行が「自然発生」か「人為的発生」か見分けがつきにくい、という特徴を悪用して行われるものです。当然、相手に知られないように、極秘裏に行われます。 ましてこの10月時点では、6月のルーズベルトの警告が、まだ強く意識されていたはずです。
中国側が「細菌戦」の実施に気が付いた(あるいは気が付きかけた)以上、それ以上「作戦」を続行することは、米軍の報復を誘発することになりかねません。 実際に「浙かん作戦」における細菌戦が「中国の非難」によって中止されたのかどうか、私は他の資料で確認できませんでしたが、この流れは特段不自然なものではないでしょう。
突然「二年」の語が出てきましたが、投稿者が紹介した引用文は「1942年10月2日。中国政府が日本の細菌戦を非難し始めたので」で、「二年」の文字はありません。 あるいは掲示板の一連のやりとりの中で「二年」の文字が登場したのかもしれませんが、今となっては確認のしようがありません。 いずれにせよ、投稿者は、「1940年10月寧波細菌戦について、中国側は二年も経った1942年10月になってなぜか突然「非難」してきた」と理解しているものと推察されます。 吉見氏らの原文を見ましょう。
吉見氏らは「非難」の具体的内容に触れておらず(「井本日誌」に「非難」に関する記述があったようにも読めます)、これが「今現在行われつつある細菌戦に対する非難」なのか、それとも「過去の細菌戦に対する改めての非難」なのか、判然としません。 しかし少なくとも、投稿者が考えるような、「2年も前の細菌戦のことを、なぜか突然非難しだした 」ものでないことだけは、確かです。 ※2020.4.8追記 『裁かれる細菌戦』第1集 P138にて、「中国政府が日本の細菌戦を非難し始めた」は「井本日誌」の記述であることが確認できました。 実際には、中国側は、この半年前の1942年3月、重慶の各国大使館へ文書を配布する形で、「日本の細菌戦」への非難を行っています。いわば、外交ルートを通じた、「公式の非難」と言ってもいいでしょう。
上の引用文にある通り、文書のメインテーマとなったのは、1941年11月の「常徳細菌戦」でした。1940年10月「寧波細菌戦」についても、言及が見られます。 少なくとも、1942年10月の時点で、中国側が突然、1940年10月寧波細菌戦を「非難」しだした、というのは、明白な事実誤認です。 なお、半藤一利氏が、「元参謀」(氏名不詳)が語るこんなエピソードを紹介しています。
事実関係が十分に整理されていない感があり、「史実」との対応が必ずしも明確ではありませんが、重慶の各国大使館に配布した文書がこの時期になって外国紙に報道され、日本側はそれを見てあわてて作戦中止を指令した、と解釈すれば、一応は吉見氏らの記述とも整合します。 他の裏付け資料が見当たらず断定はできませんが、あるいはこれが、「浙かん細菌戦」を中止に追い込んだという、「中国側の非難」の正体だったのかもしれません。 (2017.8.5)
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